とにかく ひとは
他人の心の中や周りで起きているものごとを
定規で測るように正確に測り知ろうとする
知るということが他人より優位に立とうとする欲求なのだろうが
他人の不知の領域が自分のなかで広くなった分
自己の知の領域が狭くなる反比例の関係にあることを忘れている
この 自分だけのものさし を
死ぬまで担いでいく だから疲れるのは当たり前なのだが
自在に変えられるものさしもあれば
決まりきったものしか決まりきったようにしか測れないものさしもある
人それぞれ
果たして、自分のものさしなど見た試しがないのだから
自省内省で”自分のものさし”を測量するしかないのだろう
しかも、このものさし
測れないものまで無理に測り知ろうとする
無駄だと分かっていても習慣なので止められない
計測値はあやふやでも 自分に都合の良い「ものさし」だから
自分に都合の悪い「人」や「ものごと」は受け入れられない
イライラという関係性で悩み苦しむことになる
そして、この悩みや苦しみまで測量してしまう
やれやれである
迷いや苦しみは測量することで生まれる
両手をたたく
すると音がする
その音は右手が鳴ったのか、それとも左手が鳴ったのか
いや、両手が鳴った
どっちが鳴ったのかと尋ねる
答えは
どちらも鳴った、つまり、右でも左でもいい
もともと、なにもないのだから はかれない
測量(しきりょう)を手放せば 楽
夏の薔薇は小ぶり